Your Vision is Your Future

 最近、新たに加えられた、私たちの教会の第二の基本標語。私たちの教会が、神の国のさらなる拡大・成長を目指して、新しいPhaseに入る時期にふさわしいモットーとして、リーダーである主任牧師が提唱したものである。 そのこころは、礼拝説教等の中で折に触れて語られている。

Vision, ビジョン: 人によって意味の受け止め方が少しずつ違う。「目標」「夢」「幻」「ライフワーク」。。。 日本語での共通の理解・定義が必要かもしれない。いや、定義などしない方がよいかも。そのようなわけで、次の主題説教も「ビジョン」という英語表現のままに訳してある。

 "Your Vision is Your Future"  ...主題説教

"Your Vision is Your Future". この主題について、米国のひとりの牧師による明快な説教がWebサイトにあった。私の拙訳ではあるが全文を紹介したい。一部意訳したところもあるが、この主題に関するすばらしいメッセージが伝わることを願う。

"Your Vision is Your Future"         by ランディ牧師

箴言 23:18 「確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」
箴言 29:18 「幻がなければ民は堕落する。」

ビジョンは、私たち全ての者が持たなければならないものである。

(マタイ16:21) このときから、イエスは、御自分が殺される、と弟子たちに打ち明け始められた。ご自身が三日目に復活することになっている、とはっきり言われたのだが、弟子たちは、イエスが死ぬということだけに心が捉われてしまったようだった。

ビジョンは、将来の状況である。預言者ハバククが、「幻を書き記せ。読めるように、(そして実行できるように)はっきりと書き記せ」(ハバクク1:2)と告げたように、ビジョンは非常に重要である。

ビジョンは、明確であればあるほど、引き付ける力が強い。より力強いものとは、その引力である。ビジョンは、私たちに運命――目的意識を与えてくれる。あなたのビジョンは、あなたの将来である。悪いビジョンを持てば、悪い将来を持つことになる。前向きのビジョンを持てば、肯定的な将来を持つ。ビジョンがなければ将来もない。

【原則】 ビジョンなき者は、必ずその過去に返る。

モーセとイスラエルの民は、捕囚の地を去って約束の地に向かった。モーセは民を約束の地へ導く、というビジョンをしっかりと掴んでいた。民たちは、それを掴んでいなかったのが問題だった。彼らは、ただモーセについて行っただけであった。モーセは計画の人であった。その他の人々は、主が望まれたビジョンを持っていなかった。

荒野で過ごしているとき、モーセは山に登らねばならない時が来て神と語った。モーセが神と共にいた時、残された民に何が起こったのか? 彼らの我慢が切れ、過去に戻ってしまった。神に捧げられた金を取り出し、一つの偶像を造った。彼らはエジプトを脱出した。しかし、ビジョンのない民は、必ず過去に返る。彼らは、金の子牛=偶像を拝み始めた。なぜか? モーセが行ってしまった後、ビジョン――将来がなくなってしまったからである。

神は、毎日彼らに食物を与えられた。奇跡的に、毎日マナを備えられた。マナとは、「これは何だ?」 という意味である。そして彼らは、「我々がエジプトにいた時は、これよりはるかに良いものをたくさん食べていた。メロンを食べたし、きゅうりも食べ、うまいものを食べていた。エジプトにいたほうが良かった。」と不平を言った。

このように、ビジョンを失うことによって将来を失うと、神が私たちの生活に関わる以前のほうが良かった、と思い始める。それは敵の罠である。ビジョンは多くのものをもたらす。あなたのビジョンは、あなたに後ろを振り返かえらせるか? それともあなたを前進させるか?

時が経ち、イスラエル民の中から12人の者が、偵察のため約束の地に派遣された。2人――彼らはビジョンの人であった――は肯定的な報告を携えて戻り、10人は否定的な報告を持って帰ってきた。彼らにはビジョンがなかった。10人の者たちは、「我々は、その地を奪い取ることができない。その地には巨人がいる」 といい始めた。神がビジョンを授けらた時、そのビジョンの実現が易しいものではない、ということをどれほどの人が分かっているだろうか? 神は彼らに教訓として教えられようとされた。その教えとは、「神の助けにより、巨人を倒すことができる」ということであった。しかし、多くの者は、試してみようとさえ望まなかった。

なぜだろうか?彼らには、ビジョンがなかったからである。ビジョンを抱いている者たちは、神がその御力を証明する機会として巨人を見たのである。

イスラエルの民の心の中を見るとき、彼らが何を恐れたのか分かるだろうか? 巨人がその地――約束の地――にいるのを見た時に分かることは、その地に住むには、あなたも巨人にならなければならない、ということである。彼らを最も恐れさせたのは、巨人ではなく、望むものを得るために、巨人にならなくてはならない、ということであった。そして彼らは、自分たちが巨人になれることを信じなかった。心の中で、自分たちは巨人になれない、と思ったとき、「我々は奴隷としてエジプトにいた方が良かった」、と言ったのである。

私がおとなになりつつある頃、神が私を牧師として召しておられることを知った。しかし、私はそれを恐れた。私が牧師にならなければならないことを恐れた。そこで、私は会計士になろうと決めた。大学へ行き、会計学の学位を取って卒業した。しかし、本心では幸せでなかった。神に仕えている時、教会にいる時――神のために奉仕している時――のほうが元気がよかった。神は、より大きな計画を持っておられたが、私は恐れた。ついに、私が「はい」と言った時、本当の平安を得た。

刑事が取り逃がした犯人を追跡するとき、最初に捜す場所は、犯人の行きつけの場所である。逃亡している者には先がない。先のない者は、必ず過去に戻るからである。

ときには、夫と妻――結婚に対して、神が持っていたビジョンを失ったとき、二人は希望と将来をうしなう。そして、「独身時代のほうが良かった」という。

ビジョンのない者は、必ずその過去に返る。

逆戻りか? 逆戻りは、クリスチャンが神に在って将来がない、と信じ始めるときに起きる。そして、霊的ゴール、霊的ビジョンがないとき、必ず過去に返り、そこも自分の居場所がないことが分かる。

あなたのビジョンを掴むために、何をしなければならないか?

1) 一時的な事にではなく、永遠にあなたの拠り所を置かなければならない。

ユダは、一時的なものにすがった人物の典型である。ユダは、貪欲で金銭の力に屈服した裏切り者として知られている。3年間の長きにわたってイエスと共に過ごしたが、イエスが何をしようとしたか、分からなかった。イエスの実像の衝撃を、現実として知った時には遅すぎた。現実が彼を圧倒し、その結果、失意に陥り首を吊った。ユダはお金を愛した人物であった。「イエスは、なぜユダにお金を扱う責任をもたせたのか?」 「なぜ、イエスはお金を一番愛した者にお金を任せたのか?」 と私たちは疑問を感じるかもしれない。事実、ユダは財布に手を付け、資金を持ち出し、不当な用途に金を使った。ユダにとって、使命とはお金を意味した。彼がイエスを見たとき、かれは収入源を見た――収益をみた。彼の語った多くの言葉は、彼の貪欲さを表している。

ものごとを一時的にとらえるとき、それは人間のビジョンである。永遠の中で見るとき、それは神のビジョンである。たとえば、ヨハネ13章に、シモンの家におけるイエスの物語が記されている。ひとりの女(マルタ)が入ってきて、香水の入った大理石の壺から香油を注ぎ始めた。ユダがそれを見て、もったいないと言った。イエスは、自分の弔いの用意をしているのだと、とユダに言った。イエスが死のうとしていることを、裏付けたのである。ユダは、このことが気に入らなかった。マタイ26章によると、ユダは外に出て行き、大祭司に「イエスを連れて来たら、いくらくれるか?」とたずねた、とある。この時までに、ユダはイエスが死のうとしていることを知っていた。「さて、イエスは死なんとしている。このことで、私は金を儲けられるかも。。。」と胸算用をした。なぜ、ユダはこんなことをしたのだろう? ビジョンのない者は、必ず過去に返るから、ユダもイエスをお金の源と見たのである。そしてイエスが、死なんとしていることを語られたとき、ユダは自分の将来が危機に瀕していると感じた。

ユダを弟子として選んだときから、イエスは彼が自分を裏切ろうとしていることを知っておられた。「私があなたがたを選んだのではないか? しかし、その中のひとりはサタンである」といわれた。イエスは彼、ユダを弟子に加えたとき、彼が何をしようとしているかを知っておられた。なぜ、ユダはイエスを売ったのか? ユダは、自分の金銭的将来を確保しなければならなかったからである。そして、自分の将来が脅かされたとき、彼は完全に過去に戻ってしまった。どうして? ビジョンのない者は、必ずその過去に返る。

敵の策略: あなたのビジョンを消滅させることができるなら、あなたの霊的いのちを死に至らせることができる。

あなたのビジョンを掴むために何をしなければならないか?

2) あなたの過去と決別し、未来と契約しなければならない

シモン・ペテロの例: ルカ5章 ペテロは、魚が一匹も獲れないのでイライラしていた。イエスは一緒に来るように招いた。ペテロは、イエスが死なんとしていることを悟った。彼はどう行動したか? イエスを捕らえた者たちは、イエスを連れ去った。そしてペテロにいった、「おまえもイエスの弟子ではなかった?」と。

ヨハネ21:1 キリストが十字架にかけられた後、ペテロに何が起きたか?

“その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、 ...”(新共同訳)

ペテロは、「わたしは漁に行く」といった。彼が神の子と過ごした3年間のすべては水泡に帰してしまった。 なぜか? メシアが死んだから、そして彼のビジョンが奪い去られてしまったからである。 ビジョンのないものは、必ず過去に返る。


5年前、私(説教者)は自分の過去に返るよう強い誘惑を受けた。 私は人生で大成しないだろう、牧師には向いていない、私は牧会宣教にビジョンを持っていない、というようなことを言う人たち、それも私が愛している人たちがいた。私は、悪魔のウソを信じ始めた。そして、私が専門学位をもっている会計の分野の仕事を探し始めた。しかし、心の奥深くに、それを否定する何かがあった。そして、主が、私に牧会宣教のビジョンをくださった。様々な背景を持った、様々な倫理道徳観を持った人たちが礼拝に集い、神にすばらしく仕える体として一つになる教会を牧する、というビジョンを持った。私が抱いたのと同じビジョンを多くの人が見たわけではないが、ご聖霊が、「要塞」と呼ばれた教会を生み出してくださった。私は、もはや会計という仕事には関わらないのだ、ということを実感した。神は、私を収穫の畑に召し出された。神が、私のために授けられたこのビジョンを追求しない限り、私には幸福がないことがはっきりと分かった。

ペテロは、ビジョンを失い仲間と漁に戻っていった。みじめさを噛み締めながら。パットン将軍の狙いは、敵を殺すことではなく、負傷させることにあった。なぜなら、敵の兵士を殺せば、敵軍はその兵士に目をくれない。しかし、兵士が負傷すれば、助けるために平均3名の兵士が要る。それゆえ、パットン将軍は、敵軍兵士を負傷させることの効果を知っていたのである。

それが、サタンの策略: あなたを傷つけることで、他者も一緒に倒すことを狙っている。

“彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。” 彼らは、何を獲ったか?

神は、どんなに興味深いシナリオを、あなたと私のために用意されているか?

ヨハネ21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

なぜ弟子たちは、イエスだと分からなかったのだろう? 彼らは、イエスを探し求めていなかったのである。「必死になって探せば、それを見出すであろう」という諺をきいたことがあるか? 時々、人々は教会に行く。懸命に求め、間違ったものを見出す―そして確かに何か悪いものを見つける。この弟子たちの場合、彼らはイエスを探そうとさえしなかった、彼らにビジョンがなかったからである。

ヨハネ21:5において、イエスは、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われた。イエスは、彼らがは何も食べるものがないことを知っていた。イエスは知っておられた。神がアダムに「あなたは、どこにいるのか?」と尋ねられたとき、神はアダムがいることを知っておられたのと同じである。神は、アダムに自分のいる所を知ってほしかったのである。ヨハネ21章では、イエスは彼らが魚を獲れなかったことを知っていた。イエスがただ望まれたのは、ペテロとその仲間たちが何もとれず、助けが必要だということを、自分たちで実感してほしかったのである。

彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

(7節)には、その人がイエスだと気づき、ペテロが衝撃を受けた様子が書かれている。彼は上着をまとって水中に飛び込んだ。ほかの者たちは、魚と共に舟に残ったままだった。その瞬間、ペテロは自分のビジョンを取り戻した。他のこととは、いっさい関係なく、ペテロは過去を断ち切って、将来へのビジョンと契約を結ぶ決心をした。私(説教者)は、先に、霊的ゴールを持たない人は、必ず過去に返るといった。その過去は、もはや自分にそぐわないことを知るだけであるが。

もし、過去に戻るとすれば、三つの選択肢がある。

1) 自殺する
2) みじめな人生を送る
3) ビジョンを取り戻す

ペテロは、ビジョンを取り戻し、他の何ものにも目をくれなかった。彼は魚と決別した。

あなたは、ビジョンを掴むために何をしなければならないか? 

3) あなたは、神への信仰、将来への信頼を取り戻さなければならない。(エレミヤ29:11)

主に仕えることに恐れをもたらすことができれば、あなたの心を捕らえ、あなたの将来を奪うことができると、悪しき者は知っている。悪しき者は、あなたの将来を奪い、ビジョンを奪うことができれば、あなたがどこに行くかを知っている。あなたの過去に返ることを。

敵の策略: あなたの心の中に恐れと疑いを起こさせ、あなたの信仰と希望を奪い取る。

それでは、敵は何をするのだろう? 奴はあなたの結婚に疑いを起こさせたがっている。あなたの経済に、あなたのミニストリーに、あなたのキャリアに疑いを起こさせ、あなの教会を疑わせ、約束を守ることを疑わせる。サタンは、あなたの領土に巨人を連れてくるのだ。神のなされる方法を見ない者は、逆戻りするからだ。

ペテロは、このことについて第二ペテロ2章22節でこういっている。悪魔の目的は、あなたを犬に変えることである。犬はビジョンを持たない。犬は、来週や来月の計画を考えない。聖書は――犬は自分の吐いたものに返る――といっている。箴言のいっていることは真実である。「犬はその吐いたものに返る」。ルカ9章62節では、イエスは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」 と言われた。前を見続けなさい、振り返ってはいけない、戻ってはいけない。

1年ほど前、私は‘ビジョン2000’と題して連続説教をした。私たちは偉大なる神に仕えているから、大きなビジョンを信じている。私は、フォレスト教会はビジョンのある教会となるだろうと、と語った。神はチャーチスクールを始めるというビジョンを我々の内に授けられた。1年後のいま、フォレスト・クリスチャン・アカデミーは目を見張る成功である。神は、大きな集会用ホールと2教室以上ある新しい棟を建てるビジョンを授けられた。1年後のいま、それが実現されている。スペイン語のミニストリーを拡大するビジョンを授けられた。1年後のいま、ビンセント&メアリー・プレズ牧師夫妻が就任しており、二人はスペイン語のほうが得意な人々に対して、すばらしい働きをしている。神は、私たちにビジョンを授けられた。約束されたようにすべてを授けられた。‘ビジョン2000’のもう一つは、ノースイースト・サンアントニオでノースイースト・フォレスト教会が始まる。来年の3月、あと7ヶ月しかないが、主のご意思であるノースイースト・フォレスト教会が実現するだろう!

ビジョンを推し進めることは、たやすいことではない。大きな障害に突き当たるだろう。私やこの教会の指導者たちにとって、すべてを保留するのは楽なことであっただろう。ビジョンを取り下げてしまうことも容易であっただろう。過去を振り返ることも簡単だ。しかし違う! 我々は鋤に手をかけたのだ。もう逆戻りはしない。我々はビジョンを持った群れだ。なぜなら、ビジョンのない人々は必ずその過去に返るからである。

ルカ22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 ときどき主は、悪魔が私たちを揺さぶることを許される。しかし、それは我々の信仰を強くすることになるのだ。信仰は私たちのビジョンと結びついている。信仰は私たちの将来と結びついている。ヘブル書11:1には、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」、と書いてある。

信仰=希望=ビジョン=将来

しかし、イエスはいわれた、「シモン・ペテロよ、あなたの信仰が無くならないように祈る。あなたの信仰が、あなたを見捨てなければ、あなたの将来もあなたを見捨てないだろう。そしてあなたは、過去に戻らない」。

そこでイエス、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」、といわれた。イエスは何が起ころうとしているか、知っていた。イエスは、ペテロが立ち直り、来るべき時代の積極的な信仰の手本となることを知っていた。ユダはキリストを裏切った。ペテロもキリストを否んだ。言い換えれば、二人とも重大な時にイエスを見捨てた。彼らは二人とも過去に返った。しかし違いがあった。ユダは自殺した(選択1)。ペテロはビジョンを取り返した(選択2)。あなたは、イエスを見捨てたか? 三つの選択肢がある。自殺するか――身体的に自殺はしないが――多くの人は、霊的に死んでしまう。または、誰もがそう願わないが、みじめな人生を送る。そうではなく、ビジョンを取り戻すか。選ぶのはあなただ。  

ランディ牧師   1999年9月

 それでは、あなたのビジョンは何か?

"Your Vision is Your Future". 「アーメン! その通りです」。 上記の主題説教も、わたしの心に響く。 しかし、問題は〈わたしのビジョン〉である。 「あなたのビジョンは何か?」 と問われたとき、すぐに明確な答えをいえない。

ビジョンとは、天からの啓示、主にあってのものがその人の真のビジョンであろう。単なる個人の思いからだけで出てきたものは、野心か、卑小なものになりやすい。考えあぐねているとき、2004年のはじめ、教会の友がよい詩を教えてくれた。正しくは、その詩が掲載された小冊子を貸してくれたのである。詩の作者については後段でのべることにして、まずそのすばらしい詩を紹介する。

  青年は幻を、老人は夢を

  神は言われる。
  終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたがたの息子と娘は預言し、
  若者は幻を見、老人は夢を見る。
                        (使徒言行録第2章17節)

  人の知恵が行き詰まったとき、必ず夢がさめている。
    人の力が失せる時、必ず幻が消えている。
    夢は老人を若がえらせ、幻は青年に前進する力を注ぐ。

  民であろうと、国であろうと、家族であろうと、個人であろうと、
    何事によらず――夢を失い、幻を見なくなった時、
    すべてにおいて下降線をたどるようになる。

  その夢を誰が与えるか、その幻を誰が見させてくれるのか。
    幻を、夢を与えるのは神であると――聖書はそう告げている。

  神が見させる幻と夢――それを頂くのは、神を信頼し、神を愛し、
    神に従おうと志し、日夜神の御心はどこにあるかと
    謙虚に探りつつ祈る人たちである。 
                              (作: 飯島正久)

この詩の作者は、港キリスト教会牧師飯島正久師である。この伝道者が主宰・発行している“家庭の聖書誌「牧歌」から許可を得て転載させていただいた。この立派な牧師・伝道者をわたしはつい先日までよく知らなかった。2004年1月4日NHKラジオ第二放送「宗教の時間」で、この師が「老いの恵み」と題して講演(証詞)をされたのを、たまたま聞いたのが幸いであった。このことを通して、上のすばらしい詩に出会えたのである。

サムエル・ウルマンの青春の詩が世間では有名であるが、それに並ぶと言ってもよい名作であると、信仰者としてのわたしは思う。また、この詩を読むと、使徒行伝・ヨエル書のこの箇所が、"Your Vision is Your Future"の聖書的根拠の一つであると明確に受け止めることができる。

 付け足し ― ビジョンについての名言

数年前に読んだ数学の本で知ったビジョンに関する名言をここに紹介したい。その本は約1000ページにわたる大著であり、内容も斬新ですばらしいものであったが、この名言を得たのは思いがけない収穫であった。

● 「昨日の夢は、今日の希望であり、明日の現実である」

"The dream of yesterday is the hope of today, and the reality of tomorrow."

 「すべてのビジョンは、最初の人が成し遂げるまで、ジョークである」

"Every vision is a joke, until the first man accomplishes it."

この二つの名言は、米国で “ロケット開発の父” と呼ばれている Robert Hutching Goddards が言ったことばである。

※"Your Vision is Your Future." に関しては、いつごろ誰がいい出した言葉か分からない。昔からある “読み人 知らず” の名言かもしれない。