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わたしが現在所属している教会について
わたしは教会での主日礼拝に出席し、教会に属することを大切におもう。そこで自分の教会について少し触れたい。教会の名を載せてリンクを貼るだけ、という方式もあるが、大切な教会を自分のページでそう簡単には扱いたくないので専用ページを設けた。
"Our Church", 英語のタイトルにしたのはちょっとこだわりがある。日本語では「私の教会」という。もちろん私が礼拝に行く教会、私が所属する教会の意味でいう。でも、正確には「私たちの教会」というべきであろう。「主の祈り」では、「我。。。」ではなく「我ら。。。」と言って祈る。「私」ではなく、「私たち」である。これに準ずる思いをもって、「私の教会」ではなく、「私たちの教会」と言いたい。しかし、ページのタイトルでは何となくしっくりこない。そこでちょっとキザっぽくなるが "Our Church"とした。
大和カルバリーチャペル[大和キリスト教会] 主任牧師: 大川従道 師
所在地: 神奈川県大和市上草柳 【地図】
最寄駅: 小田急線大和駅、鶴間駅; 相鉄線大和駅
大和カルバリーチャペルのホームページ |
“明るく、元気で、のびのびと” をモットーとし、救霊のビジョンに燃える牧師の強力なリーダシップの下に成長してきた教会。個人の観点から、この教会の特徴(特長)をわたし流に挙げる。
以上、わたしが見た事柄であるが、偏りがあるかもしれない。教会のホームページや他のメディアを通して確認してほしい。教会礼拝等に出席してみると一番明快にわかる。なお、「教会標語・牧師語録」のページもぜひ参照されたい。
★長所は短所ともなりうる。大人数教会のゆえの悩み・困難も垣間見える。これが克服され、さらなる成長となるよう願い祈る。
現在わたしが所属している教会は、3つ目の教会である。最初は学生時代に洗礼を授かった東京は世田谷区にある教会、つぎに結婚後まもなくの転居により、同じ教団の藤沢市にある教会へ、さらに2回の転居後、現在の教会に移った。
いまの教会に来たいきさつがある。現在地に転居した数年後のこと、いつもとは別のスーパー店を“開拓”しようと、家族と一緒に車で買い物にでかけた。帰途、道に迷い今の教会(正しくは以前の所在地に建っていた教会)の前に出た。その時まで住居に比較的近かったのに、その教会があることを全く知らなかった。いまほど有名でなかったからである。そこに行き着いたのは偶然かもしれないが、私たちは神のお導きだと受け止めている。その教会と牧師は、私たち家族、特に知的障害のある娘をあたたかく歓迎してくれた。
以来15年が経過した。不肖の信徒ではあるが私たちは、神様にその「流れのほとりに植えられた木」と思って、キリストの体なるこの教会に及ばずながら仕えているわが身である。
このページのトップタイトルの真下に遠慮がちに小さなハートの花のような図を配置した。フリー素材からの借用であるが、わたしの特別な思いを託している。普通は教会の建物のイメージ図を置くか、またはわたしの教会にはシンボルマークがあるのでそれを使うところである。しかし、それに代えてハートの図を掲げた。
この教会は日本でも有数の祝福された立派な教会、大きな教会である。しかし先に述べたように大規模教会ならではの問題もある。わたしの願いとして、教会は大きくなってもその中の一つひとつの小さな心・魂をも大切にする教会、そういう教会であり続けてほしいと思う。この願いを込めて控えめなハートの花柄をページのトップに配置した。
「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者にしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイによる福音書25章40節)
最後に、大きな教会に属する者の一人として、次の詩を心にとめたいとおもう。
「小さな教会」
小さな教会
と、人の目は見るだろう。しかし、その小さな群れは、
はたして小っぽけなものにすぎないのか。
大会場に大群衆が集まれば、人の目は大勢力と見る。
たかが数千、数万ではないか。しかもその中に
真の個人が、独立・自由の人が、何人あるだろう。
マッスの力は幻影にすぎない。
ひとにぎりのクリスチャンというなかれ。
ひとの目に映るそのひとにぎりは 「黄泉(よみ)の力も
それに打ち勝つことはない」 とキリストが言われた
(マタイ伝16章18節)キリストの教会のひと枝なのだ。
その幹を見よ。その根を見よ。全世界を所有する神の
保有なさる天の軍勢がそれなのだ。
霊の目は、この小さい(と見える)群れの有つ地の塩、
世の光としての力を見落とさない。
(作: 飯島正久)
“どうして、わたしは現在この教会に属しているか?” 全く個人的な本音を、教会紹介の最後にいっておきたい。
教会は企業と同じく、もしくはそれ以上に、その存亡は偏にリーダーである主任牧師にかかっている。国の内外を問わず、どんな大教会であろうと例外はない、といっても過言ではないだろう。(カトリック教会のことは別。) 教会員からみて牧師が気に入らなければ出て行くことも難しくはない。どんな教会でも様々な人間の集まり、時にはその弱さが気になることがある。(自分の弱さは気にならない/気がつかない。) その「マイナス」を大きく見るか、または「プラス」を見るかが分かれ目。
本当に何だかんだ回りくどいことも書いてしまった。でも、つまるところは自分で常には意識していなくとも“キリストの体なるこの教会”を愛し、ここから流れ出てくる“恵み”を受けているからだろう。そして願わくば、自分もキリストのこの教会を建て上げるために微力を尽くしたい。
・・・ だから、わたしはこの教会に通っている。