このサイトについて

沙部 汎

 このホームページ制作の動機・意図や感想、表紙タイトルの意味、そしてお世話になった人々への謝辞など。。。〔サイト事情〕


やっと自分のページができた。 静かな喜び! なんだかオーナーになったような気がする。このサイトは、自分自身のための信仰告白のページであり、“祈望” (祈り、望むこと) を掲げたもの。思い立ってから、はや2年。。。 「ハレルヤ! 主よ感謝します」

数年前、自分の人生における「キリスト信仰の修士論文」のようなものを作りたいと思い立った。論文というにはあまりにも拙く、実際は随想風のようにもなってしまったが、ともかく自分のサイトをくつくり始めた。自分自身の思いを整理するのが第一の目的。書き表したものが第三者の目に留まり、少しでも理解を得られたら、やはりうれしい。さらに欲を言えば、自分の考え方・生き方が、他者への証となり、少しでも役立つことを願っている。このような思いをもって、時間をかけ、じっくりと取り組みたい。むろん、未だ完成していない。今後、許される限り、充実を目指して作り続けるつもりである。(2003.8.10)

目次

表紙 トップページについて

イメージデザイン 「我従汝」 について


 「あなたは、わたしに従いなさい」

    聖書: ヨハネ福音書 21章22節

妻の実家、今は亡き岳父の家に、「我従汝」と大きく横書きで墨書された立派な額があった。その種の横長の大きな額を何と呼ぶのだろうか。 岳父の師が揮毫した立派な書であった。漢文風に右から読み、「汝、我に従え」、という岳父の師から伝えられたキリストの教えである。その書を初めて目にして以来、ずっと私の心にとどまっていた。(注)後に、この種の額は「扁額」といわれることを知った。

信仰人生の齢を重ねるにしたがい、導かれた我が信仰の神髄は、この「汝、我に従え」ではないかと体感し、心に強く響くようになった。岳父の額を思いながら、この言葉を我がホームページのイメージデザイン、主題とした。

イメージ写真 について

 早や一昔以上前になるが、わたしが聖地旅行をしたときガリラヤ湖を訪ねた。その湖畔でこのイメージ写真にある像を見た。イエスとペテロの像である。聖書ルカ5章8節にあるイエスとペテロの次の言葉をモチーフにして造られたという。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」 。。。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。(ルカ5章8-11節)

この像が語っていることが、わたしのホームページの表紙を飾るのにふさわしい。「あなたは、わたしに従いなさい。」 これがわたしのサイトのテーマだからだ。罪深いわたし、人間をとる漁師になれないわたし、それでも、イエスに従うわたしである。

You Follow Me ・・ わたしの指針(2012.7.14)

"You Follow Me" 主イエス様に従う、主イエスに倣う。そのイエス・キリストはどういうお方か? 明確に確認しておきたい。そう思って主イエス・キリスト像を一枚のチャートを使ってまとめてみました。通常の文章で書くと、相当長くなるし、大変だ。最近習い覚えたInkscapeの助けを借りました。内容をくみ取っていたでけるでしょうか?

原典は、ヘンリー・シーセン著「組織神学」です。※左のチャートの上でクリックすると画像が拡大します。

 

タイトル わたしの方法序説 「Adonai あどないの道」 について

 このサイトの最初のタイトルは「わたしの方法序説」のみだった。「我思う、故に我あり」で有名なデカルトの著作「方法序説」(方法叙説)から借用した。数学を中心とし自然科学を基として、また実社会を旅しながら思索をすすめたデカルトにあやかりたいと思ったからである。しかし、自分のサイトを書きすすめるうちに、またデカルトの「方法序説」を読み直しているうちに思いが変えられた。彼とわたしのものとは質やレベルは比較することさえできないほど違うのは当然だが、彼の説くこととわたしがこのサイトに書きたいことと方向が違うのである。「方法」ということばの意味を、もう一度確認した。

〈方法〉(méthode)の本来の意味は〈道を追う、道に従う〉ことだといわれる。手元の英和辞書によると、〈method〉はギリシャ語、ラテン語に由来することばであり、【ギリシャ語 méthodos はméta あとに + hódos 方法、道=あとに続いて進む道→きちんとした方法】と語源の説明がある。hódos とは聖書中の書巻「使徒行伝」にキリスト教徒がはじめは「この道に従う者」と呼ばれていたとあり、この「道」に使われている言葉である。

そうだ! わたしが、このサイトで言いたいことは「道を追う、道に従う」ということなのである。それならデカルトにこだわることなく、「方法序説」はわたしのサイトの立派なタイトルとなり得ることを改めて確認し安心した。


もう一つ問題があった。「方法序説」はホームページのタイトルとしては固すぎるのである。もっと軟らかいタイトルにしたい。道とはキリストに従う道、弟子としての道であり、そのおおもとは私たちが信仰する創造主なる神、主である。そこでヘブル語で「わが主」を意味する "Adonai(アドナイ)"ということばに結びつき、「あどないの道」という主タイトルにたどり着いた次第である。「方法序説」は副題として残した。

このサイトの意図

【1】 これまで牧師、伝道者の諸先生から拝聴した説教を通して、その生き様を通して、また書物を通じて、そして聖書により、教えられ、学んできた。長い時間をかけて受け止め掴んだ、そのことを、自分自身の信仰をまとめ書きとめておきたい。このホームページ第一の目的は、まず自分自身のためのものである。

【2】 聖書の御言葉のみ、三位一体なる神の導きによってのみによって、身を処したい、“動かされ”たい。神から遣わされた説教者、牧師、伝道者に学ぶことは大切であるが、一方、どんなに偉大な伝道者、教師であっても人である。人として宣言された言葉に依存しきってしまうのではなく、真の神、イエス・キリストの教えによる信仰体系を確認し、自分のものとしたい。そしてそれに従いたい。

【3】 神の神殿に築き上げられる「生ける石」の一つ、キリストの体なる教会を建て上げる一つの部分であるために、謙遜・従順・忍耐をもって祈りつつ取り組んでいく。また副次的な結果として、たとえ小さくとも 「発信する石」でありたいと願う。

以上の意図を持ってこのページをはじめた。というわけで、このサイトは、面白楽しい仕掛けは極力抑え、特別なページ以外は、じっくりと文章で言いたいこと、伝えたいことを表現する形をとった。幸い、以下の謝辞でふれたように、本文ページにすばらしい雛形を使用させていただいたので、文章が多い割りには、全体がかなり読みやすいページにまとまったとのではないかと自分で納得している。

19世紀のある聖書学者が次のようにいっている。「われわれの聖書解釈を決して定式化したり、教条化したり、規範化したりしてはいけない。そして、もっと聖霊によって教えられることに、いつも敏感でなければならない。聖書解釈は、静的 (static) なものでなく、聖霊の指導のもとに動いていく動的 (dynamic) ものでなければならない」。このことばを心に留めて、今後のわたしのサイトを作り上げていきたいと思う。

神御自身ニヨリテ教ヘラルニ非ズンバ、真の知識ヲ獲ル能ハズ。(内村鑑三)

謝 辞

まず第一に、このつたない者に、ホームページをここまで作らせてくださった神様に感謝を捧げます。

ついで、ホームページを通して多くのご指導をいただいた結城浩氏に、心からの感謝を捧げます。結城さんのホームページに公開されている分かりやすい貴重な情報から、多くのことを学ぶことができた。技術上のことばかりでなく、“クリスチャンとホームページ”についても、大切なことを教えていただいた。さらに個人的には、結城さんが制作された excellentな本文ページのデザイン/スタイルを、私のサイトで使用することを快くお許しいただき感謝にたえません。

また、制作の過程で試作版を閲覧し、貴重な意見を寄せてくれた伝道者・同信の友たちに感謝します。励ましと忌憚のないコメントに後押しされて、大いに改善に努めることができた。

最後に、妻と娘に感謝したい。毎日のようにパソコンに向かい、このページの制作に取り組めたのもこの家族のおかげである。

あとがき

ホームページなるものを初めて手がけてから、3年経った。一時職を得ていた会社の企業PRのサイトを見よう見まねで、とりあえず作り上げたのが、その始めである。一方、自分のパソコンをインターネットに接続して以来、いろいろな目的を持ったページがWeb上にあるのを、これまで数多く見てきた。その中で、個人のページは、お互い体感している通り文字通り千差万別である。心に残るものあり、残らないものあり。

最近になって、遅まきながら一つのことに改めて気がついた。それは、ホームページの仕掛け、特にハイパーリンクの仕掛けがよい。書き手の考えを、効果的に容易に、わかり易くまとめるためには非常に有効かつ便利な仕掛けである。人生、いつ終局が来るかわからない年代・時代になってきて、自分の言い分を整理して纏めておきたい、と思ってきた。その時期に、ホームページの仕掛けに出会ったのは、なんと幸いなかことか。気がついたのが遅すぎる、もう人生の5時を過ぎてはいる。しかし、暗くなるにはまだ少し間がある。人に見せるのが本来の目的ではないが。この思いを実現するために、ホームページの仕掛を大いに活用することにした。

さらに、ホームページは面白く奥が深い。私は年の分だけ、社会の場でいろいろな経験をさせてもらい、それなりのノウハウも少しは身についた。ホームページは、もちろん掲載する中身が第一であるが、それに加えて、POP的デザインやプレゼンテーションに関わるセンスとノウハウ、パソコンによる処理技術、プログラムの知識等、右脳から左脳に関わるいろいろな頭と手が必要とされ、それら雑学の集積である。ホームページを制作している人は、このようなことを、当然、身にしみて分かっていると思うが、自分で体験(体感)して知るということは大切なことであった。さて、その分野なら、“わしも挑戦してみよう!” と始め、どうにかできたのがこのページである。(2004.1.10)

◆著作権表示

このサイトの各ページの著作権は、原作者や出典など特別な記述がある場合を除き、わたし沙部汎に帰属しています。無断複製、無断転載を禁じます。雑誌、パンフレットなど印刷物への無断掲載を禁じます。リンクは自由ですが、事後でもお知らせくださると幸いです。

本編の補遺

 「補遺」などと気取っているが、実は釈明のページある。身の程しらずのこのサイトの作者は風呂敷を広げてしまったが、浅学非才というか“無知不遜、薄信不肖”のキリストの弟子であるので中身が追いつかない。そこで一言の弁解・釈明が必要となった。

「弁解するくらいなら、載せるな!」、「はい、ごもっともです。でも、"時がない!"のです」。もちろんこのまま放置するつもりはない。上よりの導きと知恵をいただき充電してから、時間はかかるかもしれないが、少しでも各タイトル看板に近づける内容にすべく精進、勤めていきたい。

1.1 「この道」について

 このページはわたし沙部汎の信仰告白をまとめ図示し、解説したものである。しかしまだ十分説明しきれていない。試行錯誤のところもある。その段階で訪問者に閲覧いただいたのは恐縮至極であるが、寛大なご容赦をお願いする次第である。なにしろ、この私の信仰告白をWebサイトを利用してまとめておきたい、と思い立ったのがこのサイト制作のはじまりだから。

1.2 「道に至る」について

(未)

1.3 「宗教・キリスト教」について

(未)