思うこと(シリーズ)

沙部 汎

 わたしの随想・瞑想・迷想のページ。“わたし版”電脳徒然草か。。。 

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First Steps to Spiritual Growth(霊的成長のための第1ステップ)

「5つの目的」(リック・ウォレン師著)を何度も読み返している。

最近、この著作の付属資料として "First Steps to Spiritual Growth" という資料があることに気づいた。早速ダウンロードして読んでみたら、大切なことが解説してある。入門者向けだが、我々のような信仰暦だけ長い信徒にも大いに必要なことが奨められているので、お互いのために拙いながらも和訳してみた。

適当なページがないので、とりあえずこのページに和訳(リンク)を掲載し必要な人のお役に立つことを願っている。

「霊的成長のための第1ステップ」(PDF版)
原典:"First Steps to Spiritual Growth"

2010.9.20記

知的障害からの教え

我が家の一人娘には知的障害がある。その関係でいろいろ学ぶことが多い。最近も必要があって「知的障害の特徴」を改めて整理し再認識した。当事者を30年以上も、毎日相手にしているので、当然体感していることなのだが、書出してみると改めて「なるほど。。。」と思わされる。

知的障害について

障害者は一般の人に比べて弱さを持っている。それゆえ障害者と呼ばれ、その弱さのゆえに、他者の援助なしでは生きていけない。世間の人たちは、たとえば我が家の娘が持っている知的障害に対してどの程度の理解をもっているのだろうか? 当事者の家族であるから大体の見当はつくが、本当のことは分からない。

知的障害者とはどんな人か、その特徴をおさらいしてみたい。Webサイトで得た資料をもとに、その概略をチャートにまとめてみた。これが全てを表しているとはいえないが、おおよその理解の助けになると思う。【チャート1参照】  このチャートは「    」から引用し、再編集したものである。ここには知的障害者の特徴と、それに対してどのような援助が必要かが端的に要約されている。

一般には、「知的障害者は頭が弱いから、少し難しいことになると理解できない、話が通じない、何を考えているか分からない」、と言う程度の理解しかないかもしれない。当事者の親としても、このたび“先人の肩に乗せて”もらい少し分かるようになった。簡単にいうと、@変化に対応し難い。Aコミュニケーションが取りづらい。B感性が鋭い。この3つが一番その特徴・特性を表していると思う。三十数年、この障害のある我が子と付き合ってみての体感である。体で知ったのである。

聖書の中に、生まれつき目の見えない人に出会った時、イエスキリストが語った言葉がある。(この人が生まれつき目が見えないのは)「本人が罪をおかしたのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」。この言葉を抜きにしては、クリスチャンとして心身障害のことを語れないほどその世界では有名な言葉である。「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」ということばは、私たち関係者にとっての大きな励ましと慰めとなっている。最近、このイエスの言葉とは別に、知的障害者の特徴から非常に大切なことを教えられている。

知的障害からの教え

最初に、知的障害の特徴を挙げた。この特徴は、私たち一般の者に何を教えているか? 以下の三つの大切な教えを、わたしは受け止める。【チャート2参照】  まず、

◆変化に適応し、受容すること 

知的障害のある人は、その障害のゆえに環境や状況の変化に適応することや対処することができない。変化を受け入れることができない。また自分を変えることができない。できないと言い切ってしまうのはよくないが、要するに“(適応)でき難い”、のである。いうまでもなく、人間は太古の昔から、自然環境や周囲の状況の様々な変化に適応し、また自分を変えたり、そのことを受容したりして生きのびてきたのである。

いま、我々は急速かつ大きな変化に直面している。戸惑い、大きな恐れを感じる。国際情勢・政治・経済・社会・文化・教育。。。すべてが大きく変わりつつある。 2003年12月のいまは、イラク問題、北朝鮮との関係等。。。財政破綻、少子化年金問題、教育のこと、犯罪の増加、。。。   いまや、誰でもすぐにいくつも問題を挙げられるほど大問題が多い。問題を挙げるだけでは解決しない。どうするか? 一庶民は対策に関わることができない、というままでは道は開けない。

展望が開けない中にあっても私たちは、これらの急速に来る変化・問題に対応・対処し、適応しなけらばならない。そして変えられないものに対しては自分を変えなければならない、受容しなければならない。かの有名な《ニーバーの祈り》の重みを感じながらニーバーに倣い、わたしの事として祈らざるを得ない。

               【ニーバーの祈り】参照

◆コミュニケーションを保つこと

障害者でなくとも、人とのコミュニケーションは難しい。家庭では、妻と夫の間、親子の間で困難を感じている人もあるし、職場での同僚、上司または部下との間のコミュニケーションは重要だ。いま、携帯電話による舌足らずのような会話(メール)が全盛である。わたしは、「けいたい」は電話だけしか使っていないので、こう言うのは偏見かもしれないが。

けいたいメールの良さは、いつでもどこでも対話ができるということか。相手が自分の好きな人であれば、彼/彼女と固く結ばれているという感があるのだろうと、メールを使わない輩は推察する。いつでも特定の相手とつながり、メールによって喜怒哀楽を感じ、愛を受け、励ましをも受けることができる。

「いつでも、どこでも」といえば、祈りに勝るものはない。神に祈ればいつでも神と交わることができる。神とのコミュニケーションによって、自分の進むべき方向・あるべき姿を尋ね求めることができる。ITの世界では、昨今ユビキタスというラテン語からきた言葉がはばをきかせているようだ。ユビキタス=偏在といえば、神のための言葉である。omnipresent, 偏在される神。私たちが呼びかけると、受け止めてくれる方。回線の混雑はないし、何時間通話しても無料。その上、私たちに一番大切なもの、必要なものを与えてくれる。

この項の最後に、はじめに話題にした我が娘の名誉のために蛇足を加える。娘は祈りの働き・効果を信じて疑わない。“幼な子の信仰”である。なにか困ったこと、心配事があると、必ず、母親か父親たるわたしに一緒に祈るように求めてくる。祈れば、必ず応えられると確信しているようだ。娘の信仰にいつも教えられている信仰弱き者である。

◆感性を大事に

知的障害者から教えられる第三のこと、それは感性、sensitivity の大切さである。知的障害者の感性は鋭い。何も分かっていないようで、自分と関わる人の人柄を直ちに見分ける。感情を適切に表現できないからといって無視したり、乱暴に対応してはならない。これは彼らのすばらしい点である。わたしたちは歳とともに感性も鈍くなり、ただ頑固になるだけでは困る。老害をふりまくだけだ。自戒の念を忘れてはならない。

感性が鋭くなければ、良き交わりは期待できない。人間にとって最も感性が要求される場合は、聖霊との交わりのときであろう。聖霊が働いているときに、全くそれがわからないことがないようにしたい。聖霊の導きに、機を失うことなく素直に反応し従う者でありたい。

***** 2003.11

薔薇の人

先日、市立図書館で司馬遼太郎が記者時代に書いたエッセイ集を見つけ、借りた。その中に「薔薇の人」と題する陶磁と陶芸家のことを書いたものがある。以下の箇所がわたしの内に響いた。[ 司馬遼太郎が考えたこと1 (新潮社発行)より一部抜粋 ]

 ある若い陶芸家が、自作の壷に精彩な薔薇の絵をかいた。。。。。 薔薇の絵付けのある壷に花がさされていた。さされた花は、自然、己を主張する。下絵の薔薇も、毒々しく自分を主張している。。。。。。

 ちかごろの花器は、自己主張のアクがつよすぎるのではないか。花器は「用」をはなれて存在しない。花を活けてはじめて花も生き己もいきるというハタラキが「用」の精神というべきものだが、若い意欲的な陶芸家にはこれが満足できないらしい。花を押しのけて自分を主張しようとする。

 独断をいうようだが、陶芸家というものは、自己主張が働くかぎり、いい作品はつくれない。その点、絵画や彫刻などの純粋芸術とは異なっている。焼きものに関するかぎり、時代の古い作品ほどいいといわれるのは、このことに連なっている。中国の古陶磁は、多くの無名の職人によってつくられた。彼等は、一貫作業のほんの一部を荷なう。毛ほどの作家意識のない宮廷奴れいにすぎなかった。彼らの作品が、今日の堂々たる作家たちの作品を、虫のように圧殺している。

 陶芸は人が創るのではなく、火が作る。火の前に己を否定して随喜してゆく精神のみが、すぐれた陶芸作品を作るのだ。もともと陶芸は、人が自己否定することによってのみなりたちうる芸術である。火が陶磁を作る。人はただ随喜して火の世話をするにすぎない。。。。。

この所を読んで、わたしは二つのことを思い起こした。ひとつは、聖書の言葉、下欄内の箇所である。司馬遼太郎が聖書をどの程度知っていたかは分からない。碩学の作家であったから、この当時でも、一通りの知識は持っていたとも思われる。しかし、このエッセイを書いたときには聖書は念頭にはなかったと考えるほうが自然であろう。しかし、その語っている内容、こころは大事なところで重なっている。

 あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。(イザヤ 29:6)

 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(イザヤ 64:8)

人は、生物学的に自然に生まれてきたのか、それとも不思議な摂理によって造られたものか、そのどちらを受け入れるかで人生の方向が決まるといっても過言ではないと思う。創造主たる神に近づくその一歩は、「自分は被造物である」ということに気づくことではなか。

思い起こしたことの、もう一つは、「神の栄光」である。「ウェストミンスター小教理問答書」に「人の生きる目的は、神の栄光をあらわすため。。」とある。非常に単純明快な答えだが、この「栄光」なるものが具体的にとらえにくい。その一つの形を、この司馬遼太郎のエッセイから掴んだように感じる。

上に書いた聖書の言葉のように、私たちは、陶磁=花器のようなもの、花器が自己主張するものではない。神の栄光をあらわす、ということは活けられた花がより美しく見えるように役割をはたす、ということではないか? これに通じるのではないかと思う。神が栄光を現されるとき、人は目立つ必要はない。花が咲き、実を結ぶのは神の業である。その花が、花器により美しく見えればよい。

キリスト教とは対極にあるような作家、司馬遼太郎の小品から、大切な真理を理解する手がかりを与えられたことは楽しい。図書館で借りてきた本により、大きな得をした気分である。

***** 2003.12

アラブ三原則とIBM

 1973年、わたしは初めて中東地域に出張した。当時は中東というより中近東と呼ばれていた地域のイラン、レバノン、ギリシャを経て、最近「核廃棄」で再び注目されている国リビアに入り、そこに長期滞在した。中東ビジネスもそれほど活発でなく、日本人の旅行者もほとんどいない時代であった。その際、先輩のベイルート駐在員や商社の現地駐在員から教わった知恵があった――「アラブ三原則」と「アラブのIBM」――アラブの人々を相手にビジネスなど事を進める際の“心がけ”・要諦である。その後、中東地域での仕事を通して、“なるほど”と自分でも実感した。この言葉は、いまでは日本でも多少知名度が上がったようである。

非核三原則になぞらえて日本人ビジネスマンの間で広まったのであろうか、「アラブ三原則」とは、「あわてず」「あせらず」「あてにせず」というものであった。「あきらめず」ということも含まれていたようにも思う。もう一つが、「IBM」である。コンピュータ関係の元巨人、あの会社のことではない。I=「インシーアッラー」、B=「ブクラ」、M=「マレーシ」というアラビア語の言葉のことである。カナ書きでは正確な発音は表せないが、最初の音が各々 I,B,Mで始まるので、一度聞いたら忘れない。

I=「インシーアッラー」は、「もし神が思し召せば、神の思し召しがあれば」という意味であり、B=「ブクラ」は「明日」のこと、M=「マレーシ」は、"Never mind" の意味で使われていた。この三つの言葉について、作家曽野綾子さんは著書「アラブの格言」という本で、さすが作家、分かりやすく解説している。さわりを後段で引用・転載させていただいた。

M=「マレーシ」というアラブの方言かなまりが、わたし(沙部汎)の耳に残ってしまっている。「マレシ」「マーレッシ」の方がより原音に近い表現らしい。いずれにしろ、普通 "Never mind" の意味で使われるこの言葉はなかなか含蓄がある。曽野綾子さんは、次のように解説している。――“マレシに関しては、「理のないこと」だというが、「過ぎたことは仕方がないじゃないの」という名訳を当てた人もいた。つまり事がならなかったのは、誰が悪いからでもない。そうなるようになっていなかったのだし、神がそれを望まなかったからだ、というのだ。確かにそういうことは人生に多々ある。”

また、アラブの世界に造詣の深いアラビア語の専門家、飯森嘉助氏はその著書の中で、こう解説している。――“マーレッシとは「こんな些細なことは貴方のような寛大な人にとっては何でもありません、そうですよね」とか「貴方のような太っ腹の人にはこのようなことは小さなことでしかありません、そうですよね」。つまり日本語では「御免なさい、お許しを」の裏返しである。アラブ社会において、寛恕がいかに人間の最大の美徳であるかを知れば、もっとはっきり理解出来るようになるはずである。”

 しかしこのアラブのIBMほど、柔軟に見えながら鞏固(きょうこ)な論理はない。国会答弁、ビジネスの交渉、汚職や犯罪や事故などが発覚した時におこなう責任者の弁明、すべてこのIBMでやられたら反撥の方法がない。
「会社の業績を上げることについて、君たち経営者は自信があるのかね」
「インシャーラー(神の思し召しがあれば大丈夫です)」
「問題になった点については、いつから改変に着手するかね」
「ブクラ(明日からです)」
 毎日が明日なのだ。そして遂に会社の業績を上げることは不可能ということになる。すると彼らは言うのだ。
「マレシ(そうならなかった方がよかったのです)」
 だから人間に全責任がおおいかぶさることはないのである。
 アラブ人が強いのは、その論理で押されたら、神が確実に介入しているので、人間の力など半分しか問題にされないからである。

(曽野綾子著「アラブの格言」新潮新書より)

わたしの現役時代は、このIBMや“三原則”をアラブの歴史、民族性から来たものだと多分に諦めと多少の軽蔑の思いをもって受け止めていた。しかしいま仕事を離れ、ただの人間、一信仰者としてこの言葉を味わい直している。人生の歩みにおける非常に大事なことを示していると思う。わたしは言いたい。この言葉が意味する真実の心を理解すれば、これは決してアラブ人専用の言葉ではない。

I=「インシーアッラー」(神の思し召し)に関しては、聖書の中にも――「御心なら。。。」――という、そのままの言葉がある。その代表としてイエス・キリストの言葉 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ42:22)を挙げたい。

B=「ブクラ」(明日)については、往年の名歌、いまサラリーマンの応援歌「明日があるさ。。。」に代表される明日を期待する心。また、人生の明日、この現実の世で眠りについた後のこと、明日の世界=天国での日としても受け止めることができる。明日を思い煩うのではなく、明日に喜びを置いて、期待してきょうを生きる。

M=「マレシ」(気にするな)は、先に曽野綾子氏と飯森嘉助氏の解説にある元来の意味を踏まえて使いたい。何か事が起きたときにも"never mind"。神がそれを望まれなかったのだ。もっと大事なことがある筈だ。それに比べれば、こんなことは些細なことだ。寛大な気持ちで対処しよう!

アラブのIBM、このキーワードをもって物事に対処すると人生すごく開放された思いになる。「インシャーラー!」「ブクラ!」「マレーシ!」(いずれも日本人流なまった発音だが)、この言葉を口にすると開放される。長い間、無責任さを表す代表的表現として受け止めていたがのだが、やっとその心がわかるようになった。かつてはこのことばをひどく嫌っていたわたしだったが。

最後にわたしの最近のモットーを掲げる。何事もことをなすに当たっては、「あわてず、あせらず、楽しんで!」 やろう、と自分自身に言い聞かせているこの頃である。なぜなら、長い間わたしの人生は“IBM”と、この新三原則とは反対の生き方をしてきたのだから。

***** 2004.1

わが家の天使

 先の礼拝説教の中で、わたしが教会信徒会で話した娘のことが引用された。それは娘との生活は「天使と暮らしているようなものだ」と述べた箇所であった。

 ところが、“親ばか的で大げさだが”と注釈を入れた部分が省かれて引用されたせいか、早速親しい友から突っ込みが入った。「天使ってどんなふう? ふわふわしている感じ?」

 このような疑問を持つのもムリはない。障害者を子に持った親の多くは、「この子は、家族の中の天使だ」というように言っていることをしばしば見聞きする。我が家の場合も例外ではない。

 そこで先の突っ込みに答えて、我が家の天使について改めて思いめぐらしてみた。以下《親バカのうた ― 駄作だが気持ちは表れているつもり》  

 わが家の天使

 神様から特別に預けられた子は、わが家の天使
彼女は気まぐれ、わがまま、甘えん坊
泣き虫で、ちょっぴり意地悪
時には幼い知恵を働かせて
悪態もつくし、泣きもわめきもする
でも、それが受け入れられてしまう、
わが家の天使なのだから

 彼女は、いつも明るく、歌声が絶えない
気は優しく、人を疑わず、全く信頼する
人を憎むことを知らない
人の心を和ませ、慰め、
病気の時や落ち込んでいる時に、いたわり励ましてくれる
だから彼女は わが家の天使

 でも彼女は現実の世界のこと(家事手伝いなど)は一切しない
地上では 天使はひとりで生きていけないのだ
これがわが家の天使の姿、その前では従順な親ばかは詩(うた)う

 神様、ありがとう! わが家に天使を遣わしてくださって
 Just being glad in the Lord

(沙部 汎 2005.7.30)

(注)夫婦の仲をとりもつことも、わが家の天使の重要な役目である。

(つづく)

(つづく)

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