なぜ教会か?

沙部 汎

 なぜ、わたしは教会へいくのだろうか? なぜだろう?

 

 クリスチャンとしての洗礼を受ける1年くらい前から、きょうまでわたしは毎週、礼拝のため教会に通っている。教会から離れると、神から離れてしまう、という気がする。本当にそうなのか?

なぜ、わたしは毎週日曜日に教会にいくのだろう?若いときから、信仰を持ってからずっと通っているからか? ひとまず、わたし自身による自分への回答[項目のみの簡略版]に続いて、実力派現役牧師による普遍的な回答を(その著書から)掲載する。なお、本ページは仕掛り中・発展途上につき、随時追加・改訂されます。

教会に行くわけ

 1. 神を礼拝するため

 神が望んでいる共同(公同)の礼拝を捧げるために、私たちは教会に行く。自分の家ではできないことがある。ローマ15:6、エペソ5:19

 2. 力づけられ、成長するため

 たとえ教会が小さく、立派なメンバーがいなくとも教会において、信仰が力づけられ、成長する。教会でない所で、そのようにはなるのは難しいであろう。

 3. 他者を力づけ、その成長を助けるため

 クリスチャンとしてのつとめ。。。。(つづく)

 4. 福音宣教する教会を支えるため

 キリストの体なる教会を、その体の一つの器官として支える。エペソ4:16

標準的な答え

 “どうして教会に行くのか?” わたしが教えを受けた尊敬する川端光生師が、その著書で述べているわかりやすい説明を、標準的な回答例としてここに紹介したい。

 クリスチヤンは、なぜ日曜日には教会に行かなければならないのですか。自分の家で日々聖書を読み、祈り、礼拝するだけではいけないのでしょうか。

 自分に与えられた人生を生かしきるためには、まず何が大切で何が大切でないかをはっきりと区別する必要があります。大切でないことは即座に止めるべきです。しかし、それよりもさらに重要なことは、大切な事々の中でも何が最も大切であるかの優先順位を明確にして置くということです。これが明確でないと不幸な結果を招きます。

 数年前の正月、母子心中がありました。正月も仕事で家に帰らなかった夫に、妻が遺書を残していました。「仕事が第一のあなたには、家族などいらないでしょう。」家族の経済生活を守るために仕事も大切です。しかし家族はもつと大切なのです。気持ちの上でも夫に後回しにされていると感じた妻は、深く傷ついていたに違いありません。

 さて、自分の家で礼拝を守るのではいけないのかと仰るあなたの心の裏では、何が最優先になっているでしようか。神の命令でしようか、あなた自身の都合でしょうか。自分で時問を決めて礼拝をしているという人がいますが、その場合、神の命令よりもその人自身のスケジュールの方が優先されているのです。教会の人間関係がいやだという人もいます。しかし、その人自身に問題がある場合が少なくありませんし、いずれにしろ、自分の都合を最優先にしていることにはかわりありません。このことに関して聖書が何といっているか見てみましょう。


1 聖日に創造主なる神を礼拝することは、神御自身の命令である

 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8)。聖日は主のものであり、この日は自分の好むことを求めず、教会で礼拝を捧げるのです。これは主の命令です。自分勝手に日時を決めて礼拝しても、長続きはしません。この二千年、もし教会がそれぞれの都合にあわせて日を決め、礼拝を守っていたならば、教会はこんなに世界的に成長はしなかったことでしょう。キリスト教界は混乱し、今日のような影響力も発揮できなかったことと思います。

2 教会を離れてはクリスチャンの真の成長はない

 キリストは「わたしはぶどうの木であり、あなたがたは枝です。……わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)と言われました。教会はキリストの体です。枝が幹から離れては育たないように、教会、あるいは信徒の群れから離れて、一クリスチャンが強固で健全な信仰を築いた例を私はまだ知りません。教会を離れれば、まずまちがいなく信仰は衰退するか、白己満足的で自己流の歪んだ信仰を形成するようになります。何事でも自己流では変な癖を身に着け、ある程度で成長は止まってしまうのです。幹から切り離された枝は、実を結ぶことはできません。しばらくは青くとも、やがて枯れてしまいます。「ある人々のように、一緒に集まることを止めたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近付いているのを見て、ますますそうしようではないか」(ヘブル10:25)。

3 教会を離れては神の計画に参加できない

 神はキリストの体である教会を通して、御自身の計画を遂行し、成就し、栄光をあらわされます。クリスチャン一人一人は、神の計画遂行のためにキリストにあって召されているのです。クリスチャンはキリストの体の一部です。一つの体を構成する部分として、キリストにつながっているのです。教会とは別個につながっているわけではありません。教会の中で、クリスチャンは互いに励まし慰め祈り合いつつ、神の働きを遂行するのです。そしてどのクリスチャンも、それぞれ御霊の賜物を受けており、それにふさわしい働きの場が与えられています。教会全体がキリストを頭とする一つの有機体です。信徒一人一人はその器官として、神の計画に参加しているのです。そうした神の壮大な計画に参与する機会を自ら放棄してしまうのは、あまりにも寂しいことではありませんか。

川端光生著 「理屈っぽい人のQアンドA要点ノート」(ハーベス・トタイム・ミニストリー出版部発行)より許可を得て転載

教会とは何か

 ここで、神学的な「教会論」を取り上げることは、このサイトの狙いとズレるし、また作者の力不足で無理である。でも、およばずながら少しは触れたい。最近(2005年5月)、D.M.ロイドジョンズによる「教会とは何か」(いのちのことば社発行)という本が発行されたので、ここからわたしが学んだことを自分流に抜粋/要約して記載しておく。「教会とは何か ― D.M.ロイドジョンズから学ぶ」

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

(使徒2:42)

 ロイドジョンズは熱く説く、「初代教会に帰れ!」。

 1 教会論を考える理由

1. 第一に、エキュメニカル(教会合同)運動の前の必要事項としてである。「教会一致」「教会合同」を論議する前に、「教会とは何か」をはっきりとさせるべきであった。

2. 伝道に関するすべての問題の中で、教会論は最初に考慮されるべき問題である。なぜなら新約聖書における伝道活動の単位は教会であって、これは世紀を通して言えることだからである。

3. 今日のキリスト教会に真に必要とされているものは疑いもなくリバイバルであると気づくとき、「教会とは何か」という問題(教会論)は重大な事柄となる。“聖霊は、ご自身の真理以外に栄光を帰すことがないし、できない。” この真理を明確に確信していない限り、教会の祈りはむなしく、力がない。

 2 教会論へのアプローチの方法

(つづく)

 3 教会とは人々の集まり

1 なぜ集まったのか ― 「重大な変化」を経験した人々が集まった。
   ・聖霊の御力の下にあった使徒の説教の結果として、深遠なる変化を経験した。

2 人々に何が起こったか? ― 説教(メッセージ)が自分に直接語られていることに気がついた。そして。。。

 4 何のために集まるのか

 初代教会の人々は、何のために集まったのか? 「楽しみや」や「おもしろさ」を求めて集まったのではない。「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈り」するために集まったのである。この順序が大事。まず教理を探求するために集まったのである。

 5 何のために集まるのか (2)

 交わりは必然的に、使徒の教えの後から生じてくるものである。「類は友を呼ぶ」と言うように、交わりが生じるのは、当然のことである。彼ら(わたしたち)は似たもの同士であり、常に一緒でありたい。ヨハネの言ったように、「私たちは、自分が死からいのちに移されたことを知っています。それは兄弟を愛しているからです。(Tヨハネ3:14)

 6 付け加えること (2)

(つづく)

***** * ***** * ***** * ***** * *****

HOME | PageTOP