宗教・キリスト教

沙部 汎

 どうして、わたしはキリスト教を信じているのか?! クリスチャンでない人のために。。。


はじめに

 2003年12月31日の朝日新聞「オピニオン」ページ全面に特集対談が掲載されていた。題して「仏教ブーム」。サブタイトルとして――《「9.11」から続くキリスト教世界とイスラム教の衝突の終止符は、なかなか見えない。その中で仏教に行き着いた2人が年の瀬に、今年の静かな仏教ブームを考察した。》――とあった。文化庁長官の河合隼雄氏と中央大学教授の中沢新一氏の対談である。一年の仕事も終わった年末の特別記事なので多くの人が目にしたと思う。

いまの日本でオピニオンリーダー的な著名な人たちが、人間の心・魂には“仏教が良い。。。”と宣伝(宣教)している。五木寛之、瀬戸内寂聴。。。など仏教派には強力な作家が続いている。遠藤周作亡き後、キリスト教派は分が悪い。しかし、もう一人の別のわたしは、このように思うことに疑問を感じる。それはキリスト教を、人間が数ある宗教の中から選ぶ「同じ土俵」においてしまうからだ。人間がより上の立場から見て選ぶことになるのではないか。

他人の信仰についてどうこう言えない。しかし、わたしを含めてキリスト信徒といま上に挙げた人たちとの一番の違いは、「人間は、自分は、創られた存在である」ことを認めているか、否かであろう。自分は作られたものであり、すべてを創造した《創り主》の存在を認めるか、否か。すべてのはじまりがこれにかかっている、とわたしは思う。

キリスト[教] >> 宗教   

※“>>”は不等号記号である。このサブタイトル中の不等式は、わたしの思いを表している。

わたしの場合

 わたしはキリスト教を数ある宗教の中の一つ、それを自分がこれと決めて(選んで)信じているのではない。神の存在を疑わず、キリストを信じキリストの神を信仰している。「わたしは神の手の中にいるのだ!」 天才バカボン風の変な表現になってしまうが、このように宣言したい。

でも、これでは一般の人、すなわち未信者あるいはノンクリスチャンには通じないとおもう。(「未信者」という表現はあまり好きではないが、適切な言葉が見当たらない。) そこで「宗教とは、キリスト教とは。。。。」に少し触れざるを得ない。ここで宗教論をとりあげるつもりはない。わたしにはそのような力はないし、このサイトの目的でもないからである。

「宗教とは」を論ずると、それだけでもたいへん。わたしには収拾がつかない。でも、すぐれて分かりやすい一つの説明がある。〔以下の囲み記事――あぶくま守行氏のサイトから許可を得て転載〕

宗教とは何か――新渡戸稲造

 宗教とは神に接して力を得、これを消化し、同化して現す力である。朝夕の祈りにおいて神に近づき、神に交わり、神の力を心に実験して、これを身に現すようにするのが何より大切である。宗教を研究するとは、実行によってするほかはない。

矢内原忠雄の解説

 宗教と言うのは学問でもなければ理屈でもありません。また感情でもなければ単なる意志の力でもありません。宗教というのは神に接して、神の力を受けて、これを自分に同化して自分の身に現すことです。その方法は祈りということです。黙思ということです。黙思によって神と交わり神に接し神の力を得てこれを自己のみに現します。自己のみに現すということは、自分が実行するということであります。

宗教を研究する方法は実行です。もっと詳しく言えば、黙思と実行、祈りと生活です。これが新渡戸先生の見られた宗教観です。・・・ 新渡戸先生の宗教の特色の一つは神秘的とでもいいますか、黙思を重んずると言うことであります。・・・ もう一つの先生のお考えの特色は、宗教は実際的なもの、実行的なものと言うことです。神と交わるという神秘的経験が、生活においてはきわめて実際的な実行力となって現われたのです。 (全集24)

「宗教と言うのは学問でもなければ理屈でもありません。また感情でもなければ単なる意志の力でもありません。宗教というのは神に接して、神の力を受けて、これを自分に同化して自分の身に現すことです。その方法は祈りということです。」 なんと分かりやすい説明であろうか。わたし沙部汎も信仰を理屈では受けとめていない。祈りを通して、聖書の言葉を通して神と接し、神の力を受ける。祈りから、聖書から受ける神から受ける不思議な力。私たちキリスト信徒は、それを聖霊の力という。信ずる者に注がれる神の力である。

この聖霊の働きがなければ、私たちの信仰は「天動説」の上に立っているようなもの。人間が主体であり、人が信ずる対象を選ぶことになってしまう。一神教か、多神教の神々か、または仏教かを選び信じることになるだろう。わたしには選ぶ以前のことである。

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言うことができない。
                            (聖書 第1コリント12:3)

「イエスは主である、キリストこそわたしの信じる神である」と告白できることは、まぎれもなく聖霊がそう言わせるのである。聖霊を、神の存在をだれも証明することはできない。しかし、わたし自身がそう告白できることをもって、わたしは聖霊の存在を知り、キリストの神(キリスト教)を信じ、従うのである。

★もう少し宗教について触れたい。以下の節を補足する。

宗教を信仰できない人の理由    

 わたし沙部汎を含めて多くのクリスチャンは、この世に宇宙に絶対者〈神〉が存在することを受け入れている。その立場から他者の信仰や宗教に対する考えを見てしまう。

でもキリスト教に行く以前に、そのこと―「神」「絶対者」が存在すること―を認めない、受け入れることができない人たちがいる。そのことを、専門家の説を引用しながら、わたし流に振り出しから見てみたい。

宗教とは。。。

 宗教社会学者橋本大三郎氏は、「宗教とは、ある自明でないことがらを前提としてふるまうこと」と定義している。この学者は宗教を社会構造の一つとして位置づけている。人々の行動をパターン化するもの(予測可能にするもの)を社会構造といい、法律、制度、役割、文化、規範、組織、習慣などがそれであるという。宗教はこれらと同列におかれている。

広辞苑によると、【宗教】(religion) 神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗のものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの関連体系とある。

「宗教」とは、英語の"religion"を明治時代に翻訳した言葉であるといわれている。「宗」の文字は、ウ冠の下に「示」がある。ウ冠は屋根を表し、「示」は神を祭る祭壇をえがいたもの、転じて神を表すものとなった。“屋根の下に神がいる”。宗教の宗の字は神の臨在を表すにふさわしい文字である。このように宗教とは《神》または《超越的絶対者》を外しては考えられないことである。自分以外の信じる対象が要(居)るのである。これがないと「哲学」になってしまうのではないか。

宗教を信仰できない人の理由 [整理された一例]

 宗教を、キリスト教を信じることがでいない人の言い分を聞いてみよう。たとえば生命学の提唱者森岡正博氏は、宗教を信仰できない理由を以下のとおり挙げている。(同氏著「宗教なき時代を生きるために」より)

@「絶対の真理がすでに誰かによって説かれている」という感覚をもつことができない。。。その真理や、その言葉が聖典に書かれていることを受け入れる気持ちになれない。――神の存在を認められない(茶色文字は沙部汎の要約)

A「死後の世界」が宗教では断定的に語られていることが多いが、それを受け入れることができない。この世に生きている人は、誰も死後の世界について断定的に語れるはずはない。――死後の世界は誰にもわからない

Bキリスト教では「神がこの世界を創造したということ」は絶対の真理となっている。世界と宇宙の成り立ちに全体にかかわる根本的なことに関して、「XXこそが正しいのだ」という断定をしたり、あるいはその命題の正しさを自分のいのちを賭けて全身全霊で疑うことを積極的に停止したりするという、そのような態度をとれないからである。――「神が世界を創造した」ことを絶対の真理として受け入れ難い

C以上のような根本的なことについて、他人が知らせてくれた解答を、そのまま自分自身の解答にすることができない。――根本的なことについては自分自身で解答を見出したい

以上は代表的な例である。

一神教は悪いのか?

 先日、わたし(沙部汎)の属するある団体の仲間うちの雑談の中で、一人が言った。「キリスト教やイスラム教は戦争やテロばかりをしている。だから自分は宗教なんて絶対に信じない!」。何人かが同調した。簡単に反論できるようなことでもなく、また難しい話をする雰囲気ではなかったのでわたしは反論しなかった。また、反論を許されたとしても、残念ながら明解に説得するだけのものをまだ持っていない。現在、このようなことを言う人への回答を模索している最中の自分である。「一神教はダメだ。やはり多神教の許容性がよい。」 このように説く人への回答をいつか自分自身でまとめておきたい。力不足で容易でないことは確かであるが。

■自分で納得できる回答がまとまるまで、すでにその試みをしている人の優れた論説を見つけたら紹介したいと思う。まず、その一つが現役牧師のサイトにあった。ご当人は“メモ書き”と注記しておられるが、続く本論がさらに期待できそうである。つぎのサイトをご覧ください。

■ここまで書き進めた2004年9月中旬、次のサイトを見つけた。わたしがこれまで知らなかっただけであるが、“市井(聖)の巨人”と表現したいような著述家でもある牧師・伝道者によるページである。聖書研究と深い洞察に基づく大作(論説)。わたしごときが内容を紹介することに遠慮を感じてしまうほど。この説の全てに与するわけではないが、“ベテラン”のクリスチャンも腰を据えて一読することをお勧めしたい。

■一神教についての極め付きの総合サイトがある。いまの日本ではここしかないという同志社大学のサイトを紹介する。内容は広く深い。時間のあるときにじっくりとご覧いただきたい。

私たちはキリスト教を信仰している!    

 前節に記述した「宗教を信仰できない理由」は、かなり普遍的で説得力がある。また、上に紹介した一神教のサイトなどによってもかなりの考察もできる。しかし信仰は理屈で追い込んで信じるものではないとわたしは思う。人はそれを「逃げ」と取るかもしれない。しかし、逃げではなく「導き」であるとわたしは受け止める。

信じられない理由を乗り越えさせるもの、それは祈りである、とわたしは確信する。上に挙げた矢内原先生の解説にあるよう、祈りが人を変える。祈りは働く。もう一度、矢内原忠雄の言葉を挙げる。

 宗教と言うのは学問でもなければ理屈でもありません。また感情でもなければ単なる意志の力でもありません。宗教というのは神に接して、神の力を受けて、これを自分に同化して自分の身に現すことです。その方法は祈りということです。(矢内原忠雄)

人が求めて祈るとき、絶対者が応えられる。最初のその小さな声を聴くには受信装置が正常に機能していなくてはならない。人の受信機が正常に働いている状態とは、聴こうとする思い、受け入れる姿勢、わたしたち信じる側の言葉を使えば――自分を明け渡す・悔い改める心である。信仰の第一歩、それは祈りから始まる。


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