この道 〔弟子の道〕

沙部 汎

  いまだ罪多き“薄信”のクリスチャン、わたし儀 沙部汎が心に描く「あるべき姿」。現実のわたしと大きくかけはなれているが、少しでも近づけるよう、“祈望”するこの道「弟子の道」。

はじめに

 キリストの神を信じる者として、キリストの弟子として、我々は<わたしは>、どんな道を、如何に歩むべきか? 「歩むべきだったか?」というほうが、わたしの場合はより正確な表現であるが。 そのことについて瞑想し考察してきたこれまでのことを、わたし流に単純化して、ここにまとめた。これは、わたしの信仰告白である。このページの内容は、キリストの弟子となることを決断したときから始まる弟子の道。それ以前の過程については、別ページ「道に至るまで」にて改めて書き留める。

  ●互いに愛し合いなさい。

  ●出て行って福音を宣べ伝えなさい。

 イエス・キリストが、この世に生きる弟子たる者へ教え命じられた事柄、そのエッセンスを最も端的に表現すれば、この2大命令になる。これは、わたしが信仰人生の中で教えられ、学び、そして聖書に基づく信仰により、現在とらえていることである。この命令にしたがい、これを実践するために求められていることを、受け止め直せば、前ページのチャートに書き表した4つ -- Follow/Pray/Love/Proclaim -- になるのではないか、というのが、わたしの信仰的結論である。

すなわち、上記の2大命令に従うために、〈わたし〉は何を求められているか? 言い換えれば、どう生きれば、この命令の現実に近づけるか? 「自分はどうするか」が、自分の前に常に見えているようにするため、4本の柱を立て前ページのような図に表した。この4つの事柄の間の優先順位については、ここでは取り上げない。いつも、このすべてをフォローすべきだというのが、わたしの理想であり、信仰である。実社会生活でなじみがあった“QCサイクル”になぞらえて、弟子のサイクル《Disciple's Cycle》と名づける。この輪が回りつつ進むことによって、わたしの信仰の歩みも、その日その時に向かって前進するというか、正しくは“上昇する”という思いを込めて。。。

      

 

この循環は、ただ回っているだけではなく、回転しながら上昇するのである。「栄光から栄光へと。。。」主と同じ姿に変えられることを目指して。。。

        

 

※前ページ《Disciple's Cycle》チャートおよびこのページ上に、英語表現が多いのは、図のデザイン/レイアウト上の都合と制作者のフィーリングによるもので他意はない。

(以下は未完。順次内容を補筆していく。。。。)

"Follow Me!"

 主を 崇め、礼拝し、従う

神に従う、キリストに従う。これが弟子としてのスタートである。もちろん、その前に、〈回心〉という道を通らなければならない。この"Follow"ということは、"Worship" すなわち「主を礼拝する」に言い換えてもよいほど深い関係がある。神を絶対者として崇め、賛美し、礼拝する。ゆえに、神たるキリストの命じることは絶対的に従う。これが全ての始まりである。

"Pray"

 祈りについて ― わたしは思う

 「主よ、祈ることを教えてください。養ってください」 祈り、神と交わり、御声を聞く。祈りつつ聖書を学び、教えていただき養いを受ける。育てられる。「養う」とは、あまりしっくりこない言葉だが、要するに「主はぶどうの木、わたしは枝」の関係である。

また、他者のために祈り、とりなし、またその人の霊的成長を助ける。。。。。。 もちろん自己の幸いなる精神的・物質的生活、その充実のためにも祈る。しかし、祈りの一番の役割は人間としての霊的呼吸であるといわれる。そのとおりであると思う。

 このわたしのサイト制作の過程で、教会の数人の友にもページを見てもらい感想を寄せてもらった。その一人曰く ― 《Disciple's Cycle》にちょっと違和感を感じる、クリスチャンの歩み中で「主にある安息と平安」にも目を向ける必要がある ― という主旨のコメントがあった。大切な指摘である。

「弟子の道、Disciple's Cycle」などと大上段に振りかぶってしまうと、平安と安息から少し遠いストイックなスタイルと誤解される。けっしてそうではない。自分にわかりやすく整理したら、このような表現/形になってしまったのである。でもその中に当然「祈り」が含まれるのである。願いごとを主とするだけの祈りではない。

 息を吸うためには、その前に息を吐き出しておかなければならない。深呼吸をするならなおさらだ。祈る時、形や教えにとらわれず、何でも自分流に祈ればよい。声を出しても出さなくとも、とにかく自分の思いをできるだけ吐き出すことだ。なんでも受け止めてくださる主に向かって。

息が出つくすと自然と空気が入ってくる。間違っていること、とんでもないこと、なんでもよいから思いっきり吐き出す。それが出尽くすと、神の霊が入ってくる。神の声が心のうちに響いてくる。神の声を聴くこと、それが祈りの基本であると思う。このときから真の祈りがはじまる。この祈りの過程において、そして祈りに導かれる現実の生活において「主にある安息と平安」が得られるのではないか。

 祈りとは何か

 ここで「祈りとは何か」を、自己流ではなく、きちんと再確認しておきたい。祈りについて書かれた書物は数多くあり、どれを頼りにしたらよいか迷ってしまうほどである。そこで手元にある本で、何度も直接説教も聴いたことのある牧師、比較的身近な大牧師「チョウ・ヨンギ師」の著書「祈りのハンド・ブック」からそのエッセンスを紹介させていただく。たいへんやさしく説明されている。 (※黒太字は沙部汎の強調)

祈りとは何なのか

 人は生まれたその瞬間から、自分なりの何かを求め始めます。そして人が求めることをやめたとき、その人の人生も終わるのです。ですから、人は誰でも一度も祈ったことのない人はいないはずです。私は神を信じないという人も、切迫した瞬間や、どうしようもなく困難なことに直面したときは、神に救いを求めて切望し、叫ぶようになります。しかしそれはまことの祈りとはいえません。真実な祈りは、生きておられる父なる神との人格的な関係の上に成り立つものです。
 。。。。。。。

◆神との対話

 祈りとは、父なる神とその子どもたちが日常的に交わす対話です。人格的な関係において、対話というのはあたかも呼吸をするようなものです。肉体が生きている限りは呼吸をし続けるように、私たちの霊は、絶えず神と対話すること、すなわち祈ることによってそのいのちを保つのです。
 わずか数分でさえ呼吸が止まると危険であるように、私たちの霊魂も祈りを休むと力を失ってしまうのです。しかし、私たちが祈ると聖霊様が神の国の霊的な空気で私たちの霊魂を新たにしてくださいます。このように祈りはクリスチャンの霊の呼吸なのです。また、祈りは、私たちが父なる神と愛の交わりをするようにさせます。たとえどんなに親しい人であっても会話がなくなると疎遠になります。
  。。。。。

◆霊的な武器

 悪魔は、たとえ選ばれた神の子であっても、すきさえあれば信仰からつまづき落とそうと、ほえたける獅子のように獲物を探して歩き回っています。なんとかして聖徒たちを祈らせないようにしようとします。また、祈りのない聖書勉強、祈りの伴わない様々な行事、祈りのない集会を持たせて聖徒たちを無力にします。聖書には、
 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。 (Tペテロ5:8-9)
と警告しているのです。
。。。。。

◆祝福と問題解決のカギ

 父なる神は、天と地とその中にあるすべてのものを創造し、あらゆるものの源です。そしてイエス様の十字架の購いによって、父なる神が私たちに用意してくださったすべてのものを受取ることができるようにしてくださいました。私たちは、このような祝福を祈りを通して受取ることができるのです。
 私たちが祈るとき、心の中に父なる神が与えてくださった義と、平安と喜びが満ち溢れ、種々の聖霊様の賜物と実が現れるようになります。そして私たちが聖霊様と共に歩むとき、私たちの生活の中に父なる神の奇跡が現れ、喜びで満たされるようになるのです。
 また、イエス様は私たちが祝福を受けることができなくなるような問題を、完全に解決してくださいます。私たちの人生には、自分の力では解決できないような多くの問題が横たわっています。実に多くの人々が問題を解決できずに力尽きて倒れてしまいます。しかし祈る人はどんなことがあっても倒れません。必ず父なる神の御前に出ていき、助けを求めるなら解決の力が注がれるからです。
 祈るとき、全能の父なる神が自らの力強い腕と御手をさしのべ、私たちの問題を解決してくださるのです。ですから、問題の最も有効で早い解決策は祈りです
  。。。。。

(チョー・ヨンギ牧師著「祈りのハンドブック」 純福音出版より)

 最上のわざ

 うちの教会の牧師が信徒に対していつも語っていることがある。「人は誰でも2つ以上の賜物がある。それをもって主に仕えましょう。賜物がないと思う人、病気で本当に何もできない人、そのような人でも祈ることはできます。」

 だんだん歳を取ってきたせいか、牧師のこの言葉も少しは身につくようになってきたし、下に紹介する詩がこころに沁みるようになってきた。まだ少し早いと思うが、いつ急病になり召されるかもわからない。

最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう−−。

若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること−−。

老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために−−。

おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事−−。

こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ−−。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために−−。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と−−。

Hermann Heuvers

 この詩は「すのはらの春原主義」のサイトから転載させていただいた。作者については転載元サイトに解説されてあるのでそこをご覧いただきたい。ページ最上部ナビゲーション「瞑想から」(「思う」)から入り、「こころの詩」―「キリスト教の有名な詩と祈り」からリンクしてある。

"Love"

 愛する、愛し合う

主イエスは、神を愛し、御言葉を愛し、そして人を愛された。弟子たちに示し、教えられた愛についての大切な主要なことばの一部を前ページのチャート上に埋め込んである。いまは、聖書の言葉そのものしか掲載していないが、追々何かを付け加えたい。

他者にたいする善い業、社会的奉仕もここに入る。。。。

"Proclaim"

 “福音する” ― 福音宣教、宣べ伝える

福音を伝える。伝道する。XXXXXXX

(つづく)

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